ゲルニカに隠された「ドクロ」と謎。ピカソが42年帰国を拒んだ理由

20世紀美術
Guernica reproduction on tiled wall, Guernica, Spain (PPL3-Altered)

突然ですが、あなたはこの絵の中に 「隠された頭蓋骨(スカル)」 が見えますか?

一見すると、何が描かれているのかよくわからない、バラバラのパズルのような絵。
そうです、パブロ・ピカソの最高傑作『ゲルニカ』です。

美術の教科書で一度は見たことがあるはず。
「戦争反対を訴えた絵でしょ?」その通りです。
でも、それだけではありません。

実はこの絵、ピカソが仕掛けた「恐怖の騙し絵」 でもあるのです。

目を凝らすと浮かび上がるスカルの影。
そして、この絵自体が辿った「42年間の亡命生活」という数奇な運命。

なぜピカソは死ぬまで、この絵を故郷スペインに返すことを拒んだのか?
そして1981年、極秘裏に行われた「帰還作戦」の全貌とは?

今日は、ただの「反戦のシンボル」ではない、20世紀最大のミステリー『ゲルニカ』の正体 に迫ります。
これを読めば、次にこの絵を見たとき、きっと鳥肌が立つはずです。

作品データ:巨大すぎる「20世紀の記念碑」

まずは、この絵の「物理的な凄まじさ」を想像してみてください。

項目内容
作品名ゲルニカ(Guernica)
作者パブロ・ピカソ
制作年1937年
技法キャンバスに油彩
サイズ349.3cm × 776.6cm
所蔵ソフィア王妃芸術センター(スペイン・マドリード)

縦3.5メートル、横7.8メートル。
これは、おおよそ大型バス1台分の側面に匹敵するサイズです。
美術館でこの絵の前に立つと、視界のすべてが「白と黒の悲劇」に覆い尽くされます。逃げ場のない圧倒的な暴力。それが『ゲルニカ』の第一印象です。

ゲルニカ壁画 (1937)
図版: ゲルニカ (1937) パブロ・ピカソ – 出典: Wikimedia Commons (CC BY-SA 4.0)

あなたは解ける? ゲルニカに隠された3つのトリック

ピカソはこの巨大なキャンバスに、いくつもの「隠しメッセージ」を埋め込みました。
まるで、見る人の無意識に直接恐怖を植え付けるかのように。

① 隠されたスカル(頭蓋骨)

画面の中央を見てください。
槍に突かれ、苦しそうに嘶(いなな)く馬がいますね。

この馬の 「鼻」と「開いた口」 に注目してください。
少し首を傾げて、別の角度から見ると……

人間の頭蓋骨(スカル)が浮かび上がってきませんか?

馬の鼻の穴が、ちょうどドクロの目にあたるのです。
これは偶然でしょうか?

隠されたスカル
隠されたスカル(頭蓋骨)のディテール – 出典: ゲルニカ(部分)

いいえ、ピカソのような天才が、これほど巨大な画面で偶然を残すとは考えにくい。
「死を忘れるな(メメント・モリ)」というメッセージが、馬の悲鳴の裏側に張り付いているのです。

② 隠れ雄牛

次は、馬の「脚」です。
前脚の膝がきゅっと曲がっている部分。
ここをよく見ると、下から突き上げる「雄牛の頭」 の形に見えると言われています。

スペインにおいて、闘牛は「生と死の儀式」。
雄牛はしばしば、圧倒的な暴力や、あるいは不屈のスペイン魂の象徴として描かれます。

隠れ雄牛
馬の足元に隠された雄牛の頭部 – 出典: ゲルニカ(部分)

③ ハーレクインの涙

画面の左側、真っ暗な背景の中に目を凝らすと、菱形の模様 がうっすらと見えませんか?
これはピカソが得意とした道化師「アルルカン(ハーレクイン)」の衣装の柄であり、同時に 大粒の涙 でもあります。

ピカソにとってアルルカンは、自分の分身のような存在。
つまりピカソ自身が、絵の奥底からこの惨劇を見つめ、涙を流しているのかもしれません。

ハーレクインの涙
闇に隠されたアルルカン(ピカソの分身)の涙 – 出典: ゲルニカ(部分)

なぜこれほど「怖い」絵になったのか

そもそも、ピカソはなぜこんなにも恐ろしい絵を描いたのでしょうか?
時計の針を、1937年4月26日 に戻しましょう。

運命の月曜日

舞台はスペイン、バスク地方の古都 「ゲルニカ」
この日は月曜日で、週に一度の「市の日」。
広場には近隣の村から農民たちが集まり、野菜や家畜を売り買いして賑わっていました。

平和な午後4時30分。
突然、空が轟音に包まれます。

現れたのは、ナチス・ドイツの空軍部隊「コンドル軍団」。
彼らは上空から、逃げ惑う人々に向けて無差別に爆弾を雨のように降らせました。

ゲルニカの廃墟 (1937)
爆撃により廃墟と化したゲルニカの街 (1937) – 出典: Wikimedia Commons

これは人類史上初といわれる本格的な 「絨毯(じゅうたん)爆撃」 の実験でした。
軍事施設を狙うのではなく、「街ごと破壊して、市民の戦意をくじく」 ことだけを目的にした、残酷な作戦だったのです。
死者は数百名とも千名以上とも言われますが、正確な数は今もわかっていません。

ピカソの怒りと、モノクロの決断

当時パリにいたピカソは、翌日の新聞でこのニュースを知ります。
一面に掲載された、黒焦げになった街の写真。

「許せない」

パブロ・ピカソ
パブロ・ピカソ – 出典: Wikimedia Commons

その怒りが、彼を突き動かしました。
当時、パリ万博のスペイン館のために「画家とモデル」という平和なテーマの絵を描く予定だったピカソは、すべての構想を白紙に戻します。
そして、わずか1ヶ月ちょっとという信じられないスピードで、この巨大な壁画を完成させたのです。

なぜ、白黒(モノクロ)なのか?
あえて色彩を捨てた理由。それは、彼が衝撃を受けた 「新聞報道のリアリティ」 をそのままキャンバスに焼き付けたかったからだと言われています。
「これは芸術作品ではない。事実の記録なのだ」という、ピカソの執念が聞こえてきそうです。
馬の体には、新聞の活字のような細かい線が無数に描かれています。これもまた、「情報」としての絵画の役割を示唆しています。


3. 「折れた剣」と「死せる子」。描かれた絶望

この絵には、隠し絵以外にも強烈なシンボルが散りばめられています。

死んだ子を抱く母(現代のピエタ)

画面の左端を見てください。
天に向かって絶叫する女性が描かれています。
その腕の中には、力なく垂れ下がった我が子の姿が。

「現代のピエタ」母と子
「現代のピエタ」。死んだ我が子を抱き、天に向かって絶叫する母親 – 出典: ゲルニカ(部分)

これはキリスト教美術の「ピエタ(死せるキリストを抱くマリア)」の現代版です。
戦争において真っ先に犠牲になるのは、いつも罪のない女性や子供たちです。ピカソはその不条理を、この「眼球すら描かれない子供」の姿に託しました。

折れた剣と一輪の花

画面の下部には、バラバラに切断された兵士の遺体が転がっています。
彼の握りしめた手には、折れた剣 が。
これは、近代的な爆撃機の前では、人間の武力など無力であることを示しています。

折れた剣と花
暴力の無力さと、瓦礫の中の希望を示す「折れた剣と花」 – 出典: ゲルニカ(部分)

しかし、よく見てください。
その折れた剣のそばに、かすかな「花」 が一輪だけ描かれています。
これは、廃墟の中からいつか再生する「希望」の象徴です。ピカソは絶望だけを描いたのではありませんでした。

電球 vs ランプ

画面上部には、ギザギザの光を放つ 「電球(Light Bulb)」 が描かれています。
スペイン語で電球は「bombilla(ボンビージャ)」。「爆弾(bomba)」と音が似ています。
これは、テクノロジーによる冷酷な破壊の象徴です。

対して、窓から身を乗り出す女性が持っているのが 「石油ランプ」
こちらはアナログな、人間味のある「真実の光」です。
破壊の光(電球)に対して、真実の光(ランプ)を対峙させる。ここにもピカソの意図が隠されています。

電球とランプ
破壊の光(電球)と、真実の光(ランプ)の対立 – 出典: ゲルニカ(部分)

「独裁者が死ぬまで、帰らない」

完成した『ゲルニカ』はパリ万博で公開されました。
しかし、これで終わりではありません。

パリ万博スペイン館 (1937)
1937年パリ万博のスペイン館。『ゲルニカ』が最初に公開された場所 – 出典: Wikimedia Commons

ここから、この絵自体の 「長い亡命生活」 が始まります。

スペイン内戦は、ピカソが支持した共和国側の敗北に終わりました。
権力を握ったのは、ゲルニカ爆撃を指示した側の独裁者、フランコ将軍 です。

もしこの絵をスペインに持ち帰れば?
間違いなく没収され、燃やされていたでしょう。

ピカソは決断します。
「私の絵を、スペインには返さない」

そして彼が『ゲルニカ』を託したのが、海の向こう、ニューヨークにある MoMA(ニューヨーク近代美術館) でした。

42年間の亡命

「スペインに公共の自由が回復されるまで、この絵を土に戻してはならない」
これがピカソの遺言となりました。

『ゲルニカ』はMoMAの至宝として展示され続けました。
あのゴッホの『星月夜』と同じ屋根の下で、42年もの間、故郷に帰る日を待ち続けたのです。

その間、ベトナム戦争の時代には、反戦活動家たちの聖地となりました。
1974年には、展示中の『ゲルニカ』に赤いスプレーで “KILL LIES ALL”(すべての嘘を殺せ) と落書きされる事件も起きました。
(幸い、厚いワニスのおかげですぐに拭き取ることができ、無事でした)。

ピカソは1973年にこの世を去りました。
その2年後、独裁者フランコも死去。
ついに、スペインに「民主主義」が戻ってくる日が近づいてきたのです。

機長は言った。「本日は、ピカソの『ゲルニカ』が同乗しています」

1981年。
スペイン政府とMoMA、そしてピカソの遺族との長い交渉の末、ついに『ゲルニカ』の返還が決まりました。

しかし、当時のスペインはまだ政情不安定。
バスク独立派や極右勢力によるテロの危険がありました。
「絵が人質に取られるかもしれない、爆破されるかもしれない」
そんな緊張感の中、極秘の移送作戦 「ビッグ・ピクチャー」 が決行されました。

涙の機内アナウンス

9月10日、ニューヨーク発マドリード行きのイベリア航空952便。
乗客たちは、自分たちの乗るジャンボジェットの貨物室に、まさかあの『ゲルニカ』が積まれているとは夢にも思っていません。

そしてマドリードの空港に着陸した瞬間。
機内アナウンスが流れました。

「皆様、マドリードへようこそ。
ここでお伝えしたいことがあります。
本日のフライトには、皆様と共に、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』が同乗しておりました。
これは同作品の、初めてのスペインへの帰還であります」

一瞬の静寂。
そして次の瞬間、機内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれたといいます。
42年前、戦火を逃れて国を出た「亡命者」が、ついに自由になった祖国へ帰ってきたのです。

防弾ガラスの檻

帰国後もしばらくの間、『ゲルニカ』は美術館の中で 「防弾ガラスの檻」 に入れられ、機関銃を持った警官に24時間守られていました。

たった一枚の絵が、これほどまでに厳重に扱われた例が他にあるでしょうか?
それは、この絵が持つメッセージがあまりにも強烈で、権力者たちにとって今なお「脅威」であり続けていることの証明でもありました。

沈黙する壁画が、今も語りかけること

現在、マドリードのソフィア王妃芸術センターにある『ゲルニカ』から、防弾ガラスは取り払われています。
私たちは今、ピカソの激しい筆致や、垂れた絵具の跡を、ガラスの隔たりなく直接見ることができます。

しかし、その「力」は衰えていません。

2003年、イラク戦争開戦の直前。
アメリカのパウエル国務長官(当時)が国連で戦争の正当性を訴える演説を行いました。
その演説場所の背景にあった『ゲルニカ』のタペストリー(複製)が、青いカーテンですっぽりと隠されていた ことをご存知でしょうか?

「戦争を始めようとする演説のバックに、世界一の反戦画が映るのはまずい」
そんな「大人の事情」があったと噂されています。

描かれてから80年以上が経ってもなお、権力者に「隠したい」と思わせる絵。
それが『ゲルニカ』なのです。

もしあなたがスペインに行く機会があれば、ぜひソフィア王妃芸術センターを訪れてみてください。
そして、この巨大なモノクロームの前に立ってみてください。

隠されたドクロの不気味さ。
引き裂かれた人々の叫び。
そして、42年かけて故郷に帰り着いた、絵画の数奇な運命。

それらすべてが、圧倒的なエネルギーとなって、あなたに語りかけてくるはずです。

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