パリで絶賛され、アメリカの大統領たちを虜にしたスウェーデンの天才画家、アンデシュ・ソーン。彼は銀行家や王族の肖像画で莫大な富を築き、当時の世界で最も成功した画家の一人でした。
しかし、その国際的なスターが60歳でこの世を去る直前、最後に魂を込めて描いたのは、華やかな社交界ではなく、自身のルーツであるスウェーデンの素朴な風景でした。
それが、今回解説する『故郷の調べ(Hemlandstoner)』です。
60歳の誕生日に国家へ捧げた「遺言」:世界から故郷へ
この絵が描かれた1920年、ソーンの体は病に蝕まれ、死の足音がすぐそこまで迫っていました。かつてアメリカのタフト大統領やクリーブランド大統領の肖像を描き、ホワイトハウスにまで名を馳らせた男が、最後に辿り着いたのは「持たざる人々」の暮らす故郷ダーラナ地方でした。

図版:アンデシュ・ソーン《自画像》1896年。出典: Wikimedia Commons (Public Domain)
ここがポイント
本作はソーン自身が、自らの60歳の誕生日(1920年2月18日)に、スウェーデン国立美術館へ直接寄贈した作品です。
人生の最終局面に、国家に対して自らこの絵を託した行為。それは、「私の芸術の真の源泉は、国際的な名声ではなく、このスウェーデンの大地と、そこに流れる古い音楽にあった」という魂の遺言(マニフェスト)だったといえるでしょう。
青を使わずに「青」を見せる? 魔法のソーン・パレット
ソーンの技法を語る上で欠かせないのが、世界中の描き手たちが今なお研究対象にしている「ソーン・パレット(Zorn Palette)」です。驚くべきことに、彼は以下のたった4色(と白)だけで、無限の色彩のドラマを描き出しました。
- イエローオーカー(黄土色)
- バーミリオン(朱色)
- アイボリーブラック(象牙黒)
- フレークホワイト(白)

図版:アンデシュ・ソーン《オムニバス》1892年。アイボリーブラックを用いた巧みな色彩設計が見て取れる。
出典: Wikimedia Commons (Public Domain)
しかし、アイボリーブラックを白と混ぜて絶妙なグレーを作り、それを温かい色(オレンジや黄色)の隣に置くことで、人間の目には「冷たい空気や青白い光」として錯覚させるのです。
『故郷の調べ』で描かれた女性の衣装や、背景の暗がりに潜む「青み」をじっくり探してみてください。画家が仕掛けた視覚のイリュージョンを体験できるはずです。
伝統を継承する「視線」の強さ:文化の守護者として

図版:アンデシュ・ソーン《故郷の調べ》1920年。出典: スウェーデン国立美術館 (Public Domain)
伝統的な民族衣装に身を包み、リュートを奏でる女性。彼女は楽器の弦ではなく、画面を超えて私たちを真っ直ぐに見つめています。
ソーンは最晩年、私財を投じて「ベルマン賞」という文学賞を創設したり、ダーラナ地方の民俗音楽の保存に尽力したりしました。彼は、加速度的に近代化し、古い伝統が失われていくスウェーデンの現状に強い危機感を抱いていたのです。
この女性の強い視線は、消えゆく自らの命とは対照的な、「永遠に残り続けるべき故郷の文化」への祈りそのものです。彼女が奏でる旋律は、時を超えてスウェーデンのアイデンティティを繋ぐ鎖なのです。
東京都美術館で見るべき「鑑賞のツボ」
もしあなたが上野の展覧会へ足を運ぶなら、ぜひ以下の点に注目してください。

図版:アンデシュ・ソーン《真夏の舞踏》1897年。ソーンが得意とした光の表現と北欧の日常。
出典: Wikimedia Commons (Public Domain)
– モデルと目が合う瞬間: 彼女の瞳に射抜かれたとき、あなたは単なる鑑賞者ではなく、100年前のスウェーデンで彼女の音楽を聴く「聴衆」の一人になります。
– 筆のスピード感(ブラッシュワーク): 頬の赤みや服の質感。近くで見ると驚くほど大胆で荒々しい筆致ですが、数メートル離れると、魔法のようにリアルな立体感が立ち上がります。
– 影の中の「青」: 先ほど解説した「ソーン・パレット」の秘密を思い出してください。青い絵の具を使わずに表現された、北欧の冷涼な空気感を感じ取ってみてください。
あなたの心の故郷に響く旋律
アンデシュ・ソーンが人生の最後の一秒まで守り抜うとした、静かで力強い故郷の旋律。

図版:アンデシュ・ソーン《グロバー・クリーブランド大統領の肖像》。世界的な名声を得ていた時代の作品。
出典: Wikimedia Commons (Public Domain)
デジタル化やグローバル化が進み、自分の根源を見失いがちな現代の私たちにとっても、彼女が放つ「あなたの心の故郷はどこにありますか?」という問いかけは、深く胸に響くことでしょう。


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