イタリア・ローマのバチカン宮殿。神聖なる教皇の書斎「署名の間(Stanza della Segnatura)」を飾る巨大なフレスコ壁画があります。
それが、盛期ルネサンスの三大巨匠の一人であるラファエロ・サンティの最高傑作、『アテナイの学堂(Scuola di Atene)』です。

出典:Wikimedia Commons(バチカン美術館)
この絵を一言で説明するなら、「古代ギリシアの大天才たちが時空を超えて大集合した、知のアベンジャーズ」です。
プラトン、アリストテレス、ピタゴラスにソクラテス。歴史の教科書でバラバラに名前を見たことがあるような偉大な哲学者や科学者たち50人以上が、なぜか同じ空間で白熱した議論を交わしているのです。
しかし、この絵を面白くしている極めつけの「仕掛け」は別にあります。
実はラファエロは、これら古代の賢人たちの顔に、自分が尊敬し、時に激しく嫉妬した「同時代のルネサンスの天才たち」の顔をこっそり重ね合わせて描いているのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、そしてラファエロ自身。
奇跡のルネサンス三大巨匠が、たった1枚の絵の中に共演しているという恐るべき事実。今回は、難しそうな哲学の知識は一旦横に置いて、名画に隠された「顔面コスプレ」の謎解きを徹底的に楽しんでいきましょう!
中央の二人:天を指すプラトンと地を指すアリストテレス
まず絶対に押さえておきたいのが、画面のど真ん中で堂々とこちらに歩いてくる二人の老人です。
彼らこそが、西洋哲学の基礎を創り上げた最強の師弟コンビ、プラトン(左)とアリストテレス(右)です。

出典:Wikimedia Commons(バチカン美術館)
天を指すプラトン(モデル:ダ・ヴィンチ)
左側にいる赤い服の老人が、師匠のプラトンです。
彼は左手に自身の著作『ティマイオス』を持ち、右手の人差し指で「パキーンと天(上)」を指差しています。これは彼が唱えた「イデア論」の強烈なアピールです。
「目に見える現実の世界なんてただの影(ニセモノ)にすぎない。天上にある見えない真理(イデア)を目指しなさい」と言っているのです。
そして、この威厳あるプラトンの顔、どこかで見覚えがありませんか?
そう、ルネサンスの生ける伝説、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」です。
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ラファエロがこの絵を描き始めた時、ダ・ヴィンチはすでに『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を世に送り出した大スターでした。ラファエロは偉大な大先輩への最大級のリスペクトを込めて、最も重要なプラトン役に彼をキャスティングしたのです。
地を指すアリストテレス
一方、右側にいる青い服の男が、弟子のアリストテレスです。
彼は左手に著作『倫理学』を持ち、師匠とは真逆で、みずからの右手を「水平(下)にスッと差し出して」います。
「先生、それは違います。真理という見えない幻の世界を夢想するより、今、我々の目の前にある現実世界をしっかり観察・経験することこそが重要です」と、現実主義(経験論)を説いているのです。
目に見えない理想(天)を重んじるプラトンと、目に見える現実(地)を重んじるアリストテレス。
ラファエロの真の天才性は、何千冊もの本で議論されてきたこの小難しい哲学の違いを、たった二人の「指のポーズ」だけで、誰にでも直感的に分かるビジュアルへと翻訳してしまったことにあります。
ライバル・ミケランジェロの「緊急乱入」
次に、画面の手前、向かって中央やや左側を見てください。
他の賢人たちが楽しく議論し合っている中、ひとりだけ輪に入れず、大理石のブロックに寄りかかって不機嫌そうにブーツを履いて頬杖をついている男がいます。

出典:Wikimedia Commons(バチカン美術館)
彼は「万物は流転する」という言葉で知られる孤独の哲学者、ヘラクレイトスです。
しかし、ここで大事件が発生します。実はこのヘラクレイトス、ラファエロが用意していた下書き(カルトン)の段階では存在していなかった人物なのです。
では、なぜ後から急遽描き足されたのでしょうか?
その秘密は、この男の「顔」にあります。筋骨隆々の体、割れた鼻、無精髭、そして泥だらけの長靴。誰が見ても、当時のラファエロにとって最大のライバルとも言える彫刻家、ミケランジェロ・ブオナローティその人でした。
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ラファエロがこの絵を描いていたまさにその時、わずか数十メートル離れた隣のシスティーナ礼拝堂では、ミケランジェロがたった一人きりで壮絶な天井画(『アダムの創造』など)を描き続けていました。
絶対に誰にも見せないと扉を閉ざしていたミケランジェロですが、彼が不在の隙を突いて、ラファエロはこっそりと礼拝堂に忍び込み、その未完成の天井画を見てしまったのです。
「な、なんという圧倒的な筋肉の迫力……この男には敵わない……!」
ミケランジェロの狂気じみた才能に打ちのめされたラファエロは、急いで自分のアトリエに戻り、この凄まじいライバルへの畏敬の念(と、偏屈すぎる性格への少しの皮肉)を込めて、自分の絵のど真ん中に「孤独なヘラクレイトス=ミケランジェロ」を緊急で描き足したのでした。
恩人ブラマンテと、こっそり覗き見する自分自身
ダ・ヴィンチとミケランジェロという怪物二人を登場させたら、もちろんラファエロ本人も黙ってはいられません。
画面の右下を見てみましょう。ここでは、子供たちを相手にコンパスを使って熱心に幾何学の図形を描いているハゲ頭の老人がいます。

出典:Wikimedia Commons(バチカン美術館)
彼は幾何学の父と呼ばれるユークリッド(またはアルキメデス)。
そしてその顔は、サン・ピエトロ大聖堂の設計を手掛けた当時の天才建築家、ブラマンテです。同郷の先輩であり、ラファエロをバチカン宮殿の装飾という大仕事に推薦してくれた大恩人への感謝を込めて登場させました。
そして、そのブラマンテの背後。画面の右端ギリギリのところで、こちら(鑑賞者側)を「チラッ」と見つめている黒い帽子の美しい青年がいます。

出典:Wikimedia Commons(バチカン美術館)
彼こそが、この絵を描いている天才ラファエロ・サンティの自画像です。
先輩やライバルたちを絵の中心で「主役」として目立たせながら、自分はこっそりと端っこで控えめに参加している。この気遣いと愛嬌こそが、孤高の変人だったミケランジェロとは違い、教皇から市民まで誰にでも愛されたラファエロの「人たらし」な性格をよく表しています。
まだまだいる! 全50人の「パラレルワールド」
中心となる4人のルネサンス巨匠以外にも、この絵には誰もが知る古代のスターたちがひしめき合っています。
たとえば、画面の左下で分厚い本にペンで何かを書き込んでいるのは、数学の定理でおなじみのピタゴラス。
階段の真ん中で、人の通行を邪魔するようにだらしなく青い布切れ一枚で寝そべっているのは、アレクサンドロス大王が挨拶に来ても「日陰になるからそこをどいてくれ」と言い放ったという犬儒派の変人、ディオゲネスです。
さらには、背中を向けて地球儀を持つプトレマイオス(天動説を提唱した天文学者)と、天球儀を持つゾロアスター(ゾロアスター教の開祖)までいます。
ウォーリーを探せのように、「あ、こいつがソクラテスだ!」「あそこにはピタゴラスがいるぞ!」と探すだけでも、一種の知的なアトラクションのような面白さが詰まっているのです。
「調和とバランス」の天才、ラファエロの真骨頂
このように、バラバラの時代を生きた哲学者たちと、同時代の癖の強いライバルたちという、まったく相容れない「大御所タレント」数十人を1枚のフレーム内に押し込める。
普通に考えれば、主張が激しすぎて画面が大渋滞し、まとまりのない絵になってしまいます。
しかし、ラファエロの恐ろしいところは、これだけ複雑な人物を配置しながらも、絵全体を見ると「驚くほど完璧に計算された、心地よいシンメトリー(左右対称)とバランス」が保たれている点にあります。
巨大な丸天井のアーチと完璧な遠近法に乗せて、あらゆる個性を一つの「美しい秩序(コスモス)」へとまとめ上げる力。これこそが、ルネサンスにおける至高の美であり、「調和の天才」と呼ばれたラファエロの真骨頂なのです。
『アテナイの学堂』は、単なる哲学の勉強用イラストではありません。
「古代ギリシア人たちが作り上げた素晴らしい知を、我々(ルネサンスの人間)が完璧に受け継ぎ、そして超えていくのだ」という、人間賛歌の巨大な記念碑です。
次にレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』や、ミケランジェロの『最後の審判』を見るときには思い出してください。
彼らは自分たちの最高傑作を描きながら、同時にラファエロの舞台の中では「哲学のアベンジャーズ」の一員として、古代と現代を結ぶ最高の役回りを演じていたということを。


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