サージェント《マダムX》はなぜ物議を醸した?肩紐と描き直しを読む

サージェント《マダムX》の全図 近代美術

《マダムX》の横顔は画面の外へ向いています。ところが、黒いドレスに包まれた身体は正面に近く、左右の腕は別々の方向へ張り出しています。静止した全身像なのに、姿勢には少し落ち着かない緊張があります。

この肖像が1884年のパリのサロンで強い反応を受けた理由は、落ちた肩紐だけではありません。The Metropolitan Museum of Art(以下、The Met)は、肌の色調、化粧、ドレス、ポーズ、そしてモデルが当時の社交界でどう見られていたかが重なったと説明しています。

この記事では、現在の画面を観察し、当時の記録と保存科学による調査を確かめ、もう一度画面へ戻ります。事件の刺激ではなく、一枚の肖像がどのように調整され、今の姿になったのかを見ていきましょう。

サージェント《マダムX》の全図

《マダムX》を30秒で確認

  • 作者: ジョン・シンガー・サージェント(1856–1925)
  • 作品名: Madame X (Virginie Amélie Avegno Gautreau)
  • 制作年: 1883–84年
  • 技法・支持体: カンヴァスに油彩
  • 寸法: 208.6 × 109.9 cm
  • 所蔵: The Metropolitan Museum of Art
  • 収蔵番号: 16.53

モデルは、パリの社交界で知られたヴィルジニー・アメリ・アヴェニョ・ゴートローです。The Metの作品記録によると、サージェントは注文を受けて描いたのではなく、モデルの協力を得て制作し、サロンへの出品で自らの評判を高めることを望んでいました。

人物画では、顔の向きだけから「高慢」「孤独」などと心理を決めつけないことが大切です。迷ったら、人物画の視線をどう読む?で紹介しているように、顔、手、身体、周囲の空間を分けて見てみます。

横顔と正面の身体が、別の方向を向く

《マダムX》の横顔と首、肩

まず横顔を見ます。鼻からあごへ続く輪郭は左へ向き、顔は鑑賞者と目を合わせません。一方、胸と腰はほぼこちらへ向いています。顔と身体の向きがそろっていないことが、姿勢の第一の特徴です。

次に、首から両肩へ視線を下ろします。首は細くまっすぐに立ち、白く見える肌の輪郭が暗い背景から鋭く切り取られています。正面性の強い身体に横顔がつくことで、静かな像の中にねじれが生まれているように見えます。これは画面から導く一つの解釈で、モデル本人の心理を断定するものではありません。

左右の腕も同じ形ではありません。片方は小さな机へ伸び、もう片方は扇を持ちながら身体に沿って下がります。横顔だけでなく、身体を支える線の違いまで見ると、全身像の緊張が分かりやすくなります。

1884年のサロンで、何が問題になったのか

The Metの作品ページは、サロンでこの肖像が賞賛より多くの嘲笑を受けたと記録しています。当時の画面では、モデル自身の右肩の宝石付きストラップが肩から落ちていました。見る側からは左側にあたります。

ただし、反応を「肩紐一本の事件」に縮めると重要な部分が抜けます。The Metの音声解説とアーカイブ記事は、ラベンダー色にも見える肌、強い化粧、胸元の大きく開いた黒いドレス、挑戦的と受け取られたポーズ、そしてゴートローが容姿で注目を集めた人物だったことを挙げています。

ここで区別したいのは、画面で確かめられる事実と、当時の社会が人物へ向けた評価です。後者をそのままゴートローの性格とみなすことはできません。サロンの反応は、作品だけでなく、当時の社交界が女性の自己演出をどう見たかも映しています。

一枚を見るときに観察と背景知識が混ざってしまう場合は、美術館で絵をどう見ればいい?の「観察→事実→解釈」の順が役立ちます。

落ちた肩紐は、現在の画面では直されている

現在の画面にある両肩と肩紐

現在の画面では、両方の肩紐が肩の上にあります。The Metの保存科学記事によると、サロン出品時の写真では右肩の紐が落ち、1885年に撮影されたサージェントのアトリエ写真では現在の位置へ直されています。

この二つの歴史写真を比べることで、肩紐の変更は確認できます。けれども、本記事には写真自体を転載していません。主作品のOpen Access画像と同じ利用条件だと確認できていないためです。ここでは、The Metが示す調査結果だけを使います。

また、現在のカラー画像だけを見て「ここに修正跡が必ず見える」とは言えません。肉眼で推測するのではなく、歴史写真と所蔵館の技術資料に基づく事実として理解するのが安全です。

描き直されたのは、肩紐だけではない

両腕と扇、机の細部

The Metは1995年に、X線撮影と赤外線調査を含む技術調査を行いました。X線は絵具層の下にある形の変更を、赤外線は表面から見えにくい下描きなどを調べる方法です。その結果、頭部の輪郭、耳、両腕の位置にも複数の変更が見つかりました。

背景も一度で現在の色になったわけではありません。保存科学記事は、青や緑を含む初期の背景、明るいローズ色を重ねた段階、そして現在見える中立的な色への変化を説明しています。額に入れたまま塗り直したため、画面の端には以前の色がわずかに残るといいます。

さらにXRF(蛍光X線分析)という、絵具に含まれる元素の分布を調べる方法から、黒く見えるドレスにも透明感のある暗い緑の顔料が多く使われたことが分かりました。「黒いドレス」と一言で呼べても、実際の色づくりは一色ではありません。

こうした変更を、ただちに作者の「迷い」や「後悔」と結びつけることはできません。調査が示すのは、完成した表面の下に複数の選択があるということです。

肌・黒い衣装・背景の境界をたどる

肌と黒いドレス、背景の境界

歴史を知ったら、もう一度いま見えている画面へ戻ります。顔から首、肩、腕へ、明るい肌の輪郭をゆっくりたどってみてください。黒い衣装と接する場所、茶色がかった背景と接する場所では、同じ肌でも境界の強さが違います。

次に黒いドレスの内側を見ます。胸元の鋭い形、腰の装飾、裾へ下がる大きな面が、細い身体の輪郭を組み立てています。色名を当てるより、明るい/暗い、硬く切れる/少し溶ける、という差を拾う方が画面の仕組みをつかみやすいでしょう。

背景は人物を説明する家具や風景をほとんど持ちません。そのため、横顔、肌、衣装、腕の線が前へ押し出されます。平らな絵は、どこを見ればいい?で扱うように、奥行きの物語だけでなく、画面上の輪郭と色面として見ると、近代絵画らしい強さが見えてきます。

「スキャンダルの絵」から、現在の一枚へ戻る

サージェントは作品を長く手元に置いたのち、1916年にThe Metへ売却を提案しました。その際、過去の騒動を理由にモデルの名を題名へ出さないことを希望し、作品は《マダムX》と呼ばれるようになりました。

この経緯は興味深いものですが、事件だけを読後に残す必要はありません。最後に、三つを分けて整理してみます。

  1. 観察: 横顔と正面に近い身体、左右で異なる腕、肌・衣装・背景の強い境界が見える。
  2. 確認済み事実: サロン時には右肩の紐が落ちており、その後に直された。技術調査は頭部、耳、腕、背景にも変更を示す。
  3. 解釈: 向きのずれと異なる輪郭が、静止した全身像へ緊張を与えているように見える。

この三つを混ぜなければ、「有名なスキャンダル」という答えを覚えるだけでなく、自分の目で画面へ戻れます。次に同時代の肖像や人物像を見るなら、マネは何が新しかった?で、輪郭と背景の関係を比べてみてください。

出典・画像クレジット

近代美術

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